圓泉寺略年譜
南北朝時代 (1332〜92) |
おそくも末期頃、太子堂開創し、別当として圓泉坊(圓泉寺)が草創されたと推察される。 弘法大師草創説あり。 |
天正18年 (1590) |
後北条氏滅ぶ。徳川家康、江戸へ入部す。 |
文録元年 (1592) |
太子堂村(五十四石余)、山本与次右衛門の知行地となる。 |
文録4年 (1595) |
賢惠大和尚、当山を中興し聖王山法明院圓泉寺と号す。 |
慶長8年 (1603) |
家康、江戸幕府を開く。 |
慶長16年 (1611) |
中興開山・賢惠大和尚遷化す。 |
元和元年 (1615) |
幕府、全国寺院の本末関係を確立。当山、中野宝仙寺の末となる。 |
寛永17年 (1640) |
寺請制度が確立。 |
寛文12年 (1672) |
庚申供養塔造立。翌年にも造立。この頃、周辺地域の庚申信仰が盛んとなる。 |
元禄年中 (1688) |
庶民の間に寺社詣でが盛んとなる。当山への参詣人あとを絶たず。 |
享保元年 (1716) |
八代将軍・吉宗 「享保の大改革」を行う。 |
享保13年 (1728) |
第九世・周明法印、寺格を進め法流を相続し、次第に檀徒家が増える。周明法印を当山中興とす。 |
寛政11年 (1799) |
11月、六地蔵尊を造立。 |
安政4年 (1857) |
1月8日、出火により堂宇、古器、古文書等悉く焼失。 |
安政7年 (1860) |
本堂再建。 |
慶応4年 (1868) |
江戸幕府崩壊。 |
明治元年 | 明治新政府樹立。神仏分離令が公布され、当山も八幡神社の別当職を解かれる。 |
明治4年 (1871) |
当山に太子堂郷学所を開設。世田谷教育界の先達・宮野芟平を迎え、子弟の教育を始む。 |
明治6年 (1873) |
新学制がひかれ、太子堂郷学所が荏原小学校(現・若林小学校の前身)となる。 |
明治28年 (1895) |
宮野芟平歿。70歳。当山境内に「頌徳碑」建立される。 |
明治32年 (1899) |
2月、本堂落慶(現本堂)。聖徳太子曼荼羅図成る。 |
大正15年 (1926) |
本堂大改修。 |
昭和6年 (1931) |
5月、聖徳太子碑建立。この頃、太子講や縁日などで当山賑わう。 |
昭和11年 (1936) |
庫裡改修。 |
昭和23年 (1948) |
境内整地を行う。「聖徳太子節分会」開始。 |
昭和26年 (1951) |
太子堂廻廊改修。 |
昭和33年 (1958) |
11月、境内に聖徳太子銅像(加瀬朝香作)が安置。 |
昭和39年 (1964) |
本堂修繕。 |
昭和43年 (1968) |
5月、子育地蔵尊を当山に遷座。 |
昭和44年 (1969) |
太子堂屋根改修。 |
昭和49年 (1974) |
9月18日、無縁塔造立。 |
昭和60年 (1985) |
弘法大師千百五十年御遠忌記念、弘法大師修行像建立。 |
圓泉寺歴代住職
※五・六・七世の住職の歴代数は推定。