鎌倉時代に成立した禅宗に、臨済宗と曹洞宗がある。臨済宗は中国で成立した禅の一派で、禅匠臨済義玄の禅風を伝える宗派である。日本には栄西
(1141〜1215) が宋より伝えた。ただし、現在に伝わる臨済宗各派のほとんどは、鎌倉末期から室町期に活躍した大応国師(南浦紹明)
、大燈国師 (宗峰妙超) 、関山慧玄といういわゆる応燈関の流れである。さらに江戸時代には白隠 (1685〜1768) が出て、これを中興した。禅とは精神統一の状態を意味dhyana(jana)の音写・禅那の語に由来する。すなわち、座禅を組んで精神統一の状する態に入り、自己の本性を見徹し、悟りを開くことを目的としている。その悟りの境地は、言葉によって説明することはできず、師と弟子の間で心から心へと伝えられる
(不立文字、教外別伝) 、という。また、古来、禅僧には、その悟りの立場から発する奇妙な言動が禅問答として遺されているが、それらは後に禅の学人にとって自らの修業を深めるよすがとして活かされるようになった。これを公案という。白隠禅は公案による禅修業を主体としている。臨済宗の中で最も大きな宗団は臨済宗妙心寺派である。妙心寺の開山は関山慧玄(1277〜1360)
で、室町時代に雪江宗深によって全国的な広がりをもつ一派となった。その他大本山とその開山を挙げると、建仁寺は栄西、南禅寺は無関普門
(1212〜、主な1291) 天龍寺は夢窓疎石 (1275〜1351) 、大徳寺は宗峰妙超 (大燈国師) (1282〜1337)
、建長寺は蘭渓道隆 (宋1213〜1278) 、円覚寺は無学祖元 (宋1226〜1286) 、また、相国寺は夢窓疎石を開山春屋妙葩
(1311〜1388) を二世とし、各本山ごとに宗派を形成している。臨禅は武士階級に好まれ、また、絵画 (水墨画) 、演劇
(能) 、茶道等、中世の文化に非常に大きな影響を与えた。なお、江戸時代、明の禅僧・隠元隆〇 (1592〜1673) によって臨済禅が伝えられたが、現在、黄檗宗として伝えられている。京都宇治の黄檗山万福寺を本山としている。曹洞宗は、やはり中国の曹洞宗の禅を、道元
(1200〜1253) が入宋して伝えたものである。道元は初め、比叡山に上り修行し、その後、栄西にまみえて禅を修するようになった。さらに宋に渡って禅宋諸師に遍参し、ついに天童如浄の下に、「身心脱落、脱落身心」と大悟し、印可を受けた。帰朝したが、旧仏教の圧迫を受けたり、幕府にも受け入れられなかったりしたため、越前に移り、永平寺を開き、弟子の育成に尽力した。
曹洞禅は臨済禅と考え方がやや異なり、公案は用いず只管打坐、ただ座るということを重んじている。座禅は仏のはたらき、仏の活現に他ならないということで、これを「本証の妙修」という。また、曹洞宗では、「行持綿密」、「威儀即仏法」といって日常生活の微に入り細にわたって綿密な規定がなされている。道元の家風は、極めて厳格で、格調の高いものであり、一般に広まる性格のものではなかったが、その門下の第四祖、瑩山紹瑾(1268〜1325)
が禅を大衆化し、現代の大教団の基礎を築いた。瑩山紹瑾はは、石川県の能登に総持寺を開創したが、これは明治に入って火事にあい、横浜の鶴見に移っている。現在、曹洞宗は福井の永平寺と鶴見の総持寺の二大本山制をとり、道元を高祖、瑩山を太祖として尊崇している。
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